Essay

青い鳥の罠


 「自分らしく」の続きですが....
「自分らしく生きたーい」と意識することの背景には、
「本来の自分」今の自分のほかにあって、いまの自分は それとは違う「仮の姿」?である。
というような思いがあるのではないでしょうか? 演奏者にとって、「生きる」と「演奏する」は一応 一緒のことですので、翻訳すれば
今自分がやってる音楽は、本当の俺の音楽じゃない。 もっと別に本当に自分らしい音楽があるはず。
ということになります。
私自身、こういう思いでずっと暗中模索してきました。 しかしそのあげく20年前の自分を振り返ると、 「人間そんなに変わらない」んだなあ。

結局、今の自分以外の「本当の自分」がどこかに存在して いるという思いは「青い鳥の罠」にはまる第一歩なんじゃないか?

ここで、「青い鳥の罠」というフレーズにピンときた人、 要注意ですよ。
青い鳥(本当の自分)をいくら求めても、それは結局自分の家 (いつもの自分)にしかないというくらいの意味ですが、 こんなことを、前項でも登場の旧友精神科医に話したところ、

「それは中高年の発想である」 という指摘を受けました。

痛ーーっ!
そのとおりでございます。
「青い鳥の罠」をリアルに感じるのはやはり、中高年だから でしょう。したがってこういうフレーズにピンとくる方は、 良い言い方をすれば大人、悪く言えば老けた思考の人という ことになるかもしれません。

 思い直せば、 「青い鳥の罠にはまってあがく」というのは、 確かに無駄なことではあるけど、無駄だから止めとこう という人は少なくともアート活動には縁がないでしょう。 (「おまえのやってるあの演奏がアートなのか?」っていう ツッコミは無しですよ!)
 結果は「もとの自分」にもどっただけでも、その中で、 たとえば「青い鳥」が書ければ、「偉大な無駄」ですよね。 もちろん、なにも残らなくてもそれはそれで、さらに結構 なことでしょう。

 うーーむ。悟っちゃいかん。
 まだまだ悪あがきするか。

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