Essay

「即興について-2」(音楽哲学についてしつこく続き)


前項に引き続き、 という「ジョージ大塚のパラドックス」についてですが、 これはJAZZにとどまらず、「準備と現場」という 意外に普遍的な問題なようです。
以下のようなコメントを頂きました。

コンサルタント業の方のコメント

  • 2−1 「どっかで聞いたことををクライアントに披露」というのはダメ
  • 2−2 従ってコンサルティングは(本質的に)勉強できない
  • 2−3 「コンサルタント」はいつも勉強を欠かさない
うーむ。うまいこと言いますね。さすがコンサル。しかしよーく分かる。

編集者の方のコメント

アドリブについてのジョージ大塚氏の コメントは、何となく僕の仕事でも思い当たる節が多く、 このところよく考えてしまうところです。
十分設計しないといけないんだけど、設計しただけじゃ あんまり面白くないんですよね。雑誌なんかも。

これも成る程って感じですよね。 また、全然別の観点から以下のようなご意見も...

翻訳家の方のコメント

(2.JAZZは即興が命である。その時感じたものを 演奏すべきだ。 に対して)

結論として、即興=無価値、ということです、私にとっては。
キースジャレットの演奏、実は楽譜をみながら演奏してたん だって。ナーンダツマンナイ。。
こんな聴き方ありですか??

ウーム。結構鋭い指摘だと思います。 私の答は
「そんな聴き方なしよ(楽譜見てたってOK)」
です。

でも「JAZZは即興が命」という所は変わりません。 ここでジョージさんとちょっと離れて、「私の考える 即興」について書いてみます。

私の即興論

 私は中学生の時からなぜか「即興演奏」というものに、強く 惹かれてました。即興をしたかったんです。理由は思い出せません。 クラス毎の合唱の発表会で、間奏のギターソロもアドリブでした。 クラスメートから「なぜ毎回違うの?」と不思議がられました。 (毎回同じにやって!といわれなかったのはラッキーでしたね) やる側の立場からいえば「即興したい」という以上の価値は とりあえずありません。

 実は学生時代、今回と同じような指摘(「即興であろうが 用意したものであろうが、自分から出たものだから同じでしょうが」) を受けたことがあります。これは一応もっともなことです。 キース・ジャレットが楽譜どおりに例えば「ケルンコンサート」の中のある曲を 弾いたとして、もしも同じ位生き生きした演奏ができれば、 少なくとも聴く側にとっては、まったく同じ事だと思います。 (この点では上の翻訳家氏の見解と一致します。)

 ただ自分自身の例で考えると、即興の「場」で、ある種 「自分自身を超える」ような体験をすることがあります。 常にという事ではありませんが、前もって考えたことを やろうとするより、白紙で臨む方がよりエネルギーのある音楽 に結びつくことが多いようです。(ここで「白紙」というのは、 その裏にかなり大きな情報(ボキャブラリのようなもの)を 隠してはいますが)。
 そしてこの「即興の場のエネルギー」 を最大限に活かそうとするタイプのミュージシャンが多分 JAZZ(だけではないが)をやることになるのでしょう。

 ピエール・ブーレーズは反対に「即興的な思い付きは緻密に 練られた構想を結局超えられない」ということをいってましたが、 それは彼自身、あるいは彼のスタイルの音楽(いわゆる現代音楽) については当たっていると思いますが、(実際クラシック系の人は 「即興」といわれるとむしろ力が出ない人が多い)別の人、 別のジャンルではまた別という事だと思います。

 要するに即興は「価値」ではなく「技法」です。よい音楽を作るための ひとつの手段でしょう。但しJAZZにおいてはそれが「命綱」 のような中心的な技法だということだと思います。
そしてその技法を活かすための問題点が、 「ジョージ大塚のパラドックス」 なんです。(練習したことをそのまま演奏しようとしても 「場のエネルギー」を高められないという指摘)


いかがでしょうか?ちょっとマジすぎましたか。 皆様はどうお考えしょうか。(このシリーズは一応これで終了)

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