Essay

楽器で音楽を発想する?


楽器依存/非依存

 ある楽器に固有の発想による音楽というのがあります。 例えばショパンは「ピアノの詩人」だし、パガニーニは「バイオリンの魔術師」でしょう。 ストラビンスキーの「火の鳥」や「春の祭典」は大編成のオーケストラ(という楽器)に 大きく依存しています。 あるいは、シンセサイザーを使わないテクノは想像がつかない。 という具合に楽器と音楽の発想が一体化している ケースは多々あります。
 私の楽器であるギター固有の発想による音楽もいろいろあります。 フラメンコの伴奏はやっぱりギター、レッドツェッペリン(古い!がなぜか最近CD屋でよく見る)は 歪んだギター(それもオールド・レスポール)の音がないと成立しない、 ボサノバももともとがギターと歌の音楽でしょう。
 反対に楽器を問わず通用する音楽ももちろんあります。私が毎日弾いている J.S.バッハはその代表で、ギターのためのオリジナルは一曲もありませんが、 彼のバイオリン、チェロ、チェンバロのための曲はギターでもとても美しく 響きます。

ジャズと楽器(ギターに囚われるな!)

 ジャズについて言えば、元々ジャズは管楽器とドラムの音楽で、それに加えてベース、ピアノ くらいまでがジャズの成立に大きく関与する楽器といえます。ジャズ史をひも解いて見ても、 時代を切り開いてきたイノベータはこれらの楽器の奏者ばかりです。 乱暴に言えばジャズの中ではギターはやる人は多いけれどもジャズに対する影響力という点では 今ひとつであるということでしょう(私見ではパット・メセニーだけはこの例外かもしれません)。
 私が学生時代にジャズギターを習った先生は、自ら「ギターが好きではない」と公言している 珍しいほど楽器非依存志向な人でした。 「それなら別の楽器をやれば?」というツッコミはともかくとして、 上のような事情をかなり真面目に受け止めての発言ではありました。(この方は 今でも「ギターマガジン」紙上などで、「ギターの発想に囚われてはいけない」 という主張を繰り返しされています。)
 私自身、彼の考えに共感して、ギターリスト以外のミュージシャン (チャーリー・パーカー、マイルス・デビス、ハービ・ハンコック、ジョン・コルトレーン等) のコピーに励んだものです。違う楽器のフレーズをギターで弾くのは技術的にも、演奏効果的にも 相当に難しい面もありましたが、ジャズの偉人たちの研究はやはり勉強にはなりました。 そして「他の楽器で弾いてもかっこいいアドリブをしろ!」というのが 20台の私の大きなテーマでした。 (今でも、その延長線上で、バッハの他の楽器のための楽曲を弾いているのかもしれません。)

それでも楽器にこだわる

 上のような考えは大きく言えば音楽に「楽器を越えた普遍性」を求めるというアプローチで、 これは大切なことではありますが、反面そこにこだわりすぎると「楽器に固有の魅力」というのが 発揮できなくなってしまいます。
 私自身アコースティックギターをやるようになってからは、 演奏の現場では「楽器固有の魅力」という方向にしだいに自分をシフトしてきたような気がします。 「(偶然にせよ必然にせよ)自分が選び取った楽器はギターなのだから、その味を精一杯生かす演奏をしろ」 というように。 したがって現在の私の演奏は以前よりも、「ギター依存」になっているでしょう。 実践的には、アコースティックギターはエレクトリックギターに比べてずっと楽器としての 癖が強いために、そうならざるを得ないということもありますが。
 このことが音楽的に良いか悪いはなんともいえませんが、この普遍⇔固有のせめぎあいも 自分の中では必要なことなのだと思っています。



 どうも小難しい話になってしまいました。演奏しているときはそういう難しいこと を考えているわけではなく、出したいと思う音を出しているだけなのですが。

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