Essay

作品は誰のもの?


今回はまた「哲学シリーズ」で、表現活動の作り手と 受け取り手というちょっと堅いお話です。

 私は、 「どういう分野の作品であれ、いったん公にされたものは、 作者のものであると同時に受け取り手、あるいは社会の ものにもなる」 と考えています。
 では、どこまでが作者のものか?については、例えば 法律的には著作権法というもので規定されてるわけです。  しかし、「解釈」つまり「受け取り方」といったものに 関しては、別に法律など持ち出さなくても、基本的には 「受け取り手の自由」と考えてよろしかろうと思います。 そうすると、ここで「作り手の意図に反した受け取り方」 という問題が発生します。  つまり、「作者の意図の捻じ曲げて解釈した」という 類のことですが、これもいわゆる芸術のようなもの (私の演奏活動を芸術というのはあまりにもおこがましい ですがいちおうこういったものも含めて)に話を限れば、 受け取り手(演奏でしたら聴衆)の自由であり、どう捻じ 曲げて解釈しようが、別に問題ないんではないかと思います。 というより、作者も思ってみなかったような解釈(多義性) を許すほうが、表現としてはより面白いのではないでしょうか。
 もちろん表現活動の原則第0条として、 「自分の言いたいことをはっきりいう」というのがあり ますが、その上でどう受け取られるかはまた別問題だというのが 私の考えです。
 有名作家が、時々「自分の文章が入試に出題されたが、 自分でも正答できなかった。」なんてコメントしてますが、 それはできなくて当たり前ということでしょう。出題者の解釈が、 作者の解釈と一致する保証はありませんから。 有名作家の方もそこのところは わかっていて、「だからけしからん」という人はあまりいない。 むしろ自分の作品が入試に出る程定番になったのを自慢できる、 というくらいのものでしょう。
 わたしの場合ですと、こんなことがありました。 ある店での演奏後に
「ギターよかったですね」
とお客さんに声をかけられました。 (もっともお客さんは言いにくいことはなかなか言ってくれませんけど)
私「ありがとう」(内心ホクホク)
客「よかったですよ!。ゴンチチみたいですね」
と、明るく言われて、こちらはどっと力が抜けました。 ゴンチチの音楽は決して嫌いではないんですが、そのときの自分の演奏の ねらいは、どちらかというと反対の方向だったのです。
「あ゛ー、オレの(音に込めた)想いと実際の出てる音は正反対だったのか?」
私も一応[「おとな」ですから、
「アコースティックギターでインストもの(歌が入ってない 音楽)やると、とりあえずゴンチチ風に聞こえるのだろう。」
となんとか気をとりなおし納得しました。これを多義性として流していいのか、どう聞いても ゴンチチに似ないような演奏を心がけるべきのかは、アーティストの スタンスとしては微妙なところですが。

 と、ここまで長々と書いたのは、実は自分が逆の立場に立った ことがあるからです。何年か前、ネットでかなり面白いエッセイ のページがあり、その人(ネットの常で正体はわからないんですが 作家、あるいは作家志望の人らしい)にメールを出した所 「読み方がおかしい」と逆上した返信がきて、しばらくネット喧嘩 のようなことをしたことがあったのです。
 上のような考えから、「この作者、随分おとなげないなあ」と思った ものです。(文章はとてもうまい人で、メール喧嘩そのものは 面白かったのでよかったのですが)

 しかし.........
今思い返して見ると、理不尽に怒ることが出来るこのクレージー さは、実作者としてはプラスの資質なのかもしれない。 私は普通すぎるのか!?と思う今日このごろなのです。
皆さんはどうお考えですか?

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